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若い母親たち

 ダルデンヌ兄弟の「そして彼女たちは」を観た。 ダルデンヌ兄弟の映画を観るのは「ある子供」以来だ。これは当時パリに住んでいた友だちに会いに行ったとき映画館で観た。オデオンの。ひったくりの場面で被害者が「ドロボー!」と叫んでおり、観終わったあと友だちに、あれドロボーって言ってなかった?と訊くとあれはvoleurだという。そうか、じゃあんな目に遭った時は咄嗟にドロボーって叫んでも通じるってことだな、と思った。 施設で暮らす少女たちは「ある子供」で母親になった少女よりもっと若い。彼らのあまりの若さにうろたえてしまう。救いは彼らが守られる施設が存在することだ。 四人の少女たちそれぞれに、不運にして得られなかった慈しみ、奪われ続けた尊厳がある。それは図らずも親から受け継いでしまうもので、経済的困窮も精神的欠乏も構造であり、もっと社会全体が介入していくべき問題だろうと思う。 映画を観ながら、子育てというのは常に自分のトラウマが正面にいるようなものだ(った)よなと思い出していた。まだ小さかった頃、子どもが泣くと親の自分が見るべきは目の前の子どもだとわかっているのに、そこに見てしまうのは泣いている自分。さらにかつて自分の親が自分にしたのと同じ事を、自分がいま子どもに振る舞おうとしていると気づいて、心底恐しかった。こんなの絶対嫌だ。だから親子で色んなひとと出会うようにした。子どもの友だちの親御さん、ぼくの友だち。親と離れてから築いてきた自分を信じようと思ったし、子どもにも自分以外のおとな、まともに育てられたひとに触れて欲しかった。 映画は少女たちそれぞれの自己決定に胸を打たれる。呪縛の連鎖を自分が断つこと。夫になるひとに傷を打ち明け一歩踏み出すこと。少しでも自立しながら姉に頼ること。産みの母に素直な気持ちを差し出すこと。どうか、彼らが自ら決めた己の恵みを、その芽をおおきく育てられますように。と祈らずにいられない。

自然は

時間をつくっては月刊 ホン・サンスに足を運んでいる。最近観たのは新作の「自然は君に何を語るのか」。何だか教育映画みたいなタイトルではある。 ホン・サンスの映画はコミュニケーションのリアル、相手を持ち上げたり自分サゲをしたり思い込みを主張したり、それらがいちいちあるわー。いやないわー。とツッコミに忙しい。どの映画も飲食の場面が多く長く会話がくどくど続くのが正直観ていてしんどいのだが、視点が固定された画面から意識をフェイドアウトさせて音に集中すると会話の旋律とリズムが際立ち、そこに自然の音が加わったりしてこれは音楽的な美しさ。それに気づいて以来癖になってつい観てしまう。 自然といっても造園的に整えられた敷地内、あるいは観光地の公園をそぞろ歩く程度なので、タイトルちょっと大きくないか?と落ち着かない気分にはなってくる。 そう、これは落ち着かない気分がずっと続く映画なんである。ガールフレンドの実家、父親が彼の母のために山ひとつ削って拵えたという美しくでかい家、立派×立派が過ぎて彼女の父親が終始ドヤ顔なのもまあ仕方ないが、成り行きで来てしまった彼ピの居たたまれなさたるや。 魂の自由を愛するナイーブな本質をどうか守りきってくれよ、と祈るように観てしまった。ひとり離れて夏の樹木、夜の植物に手で触れてそうね自然とは。と同調する。時折画面はピント合わせを誤ったかのように輪郭を滲ませるが、これこそが束の間の解放であるような。他者とのコミュニケーションのなかで不明瞭になる自己の輪郭を取り戻すような。そんな時間にみえた。 ハグ、やはり自分には別離のサインとして見えてしまうな。あらためて。

視線

軽く運動して帰宅したところ鼻からツーと垂れてポタ。ポタポタポタ。鼻血が出て。しばし横になる。 およそ十日に一回はファミレス行こ。について書いてる気がするが、そういえば最終話を読んで引っかかっていた部分があったのが、わかったんです。止血のために横になっているとき唐突にわかった。鼻血の功名である。 中之島駅前で別れたあと。狂児が振り返る。視線の先は遠く、当然のことながら聡実が降りていった出入り口を見ていると知れる。 聡実が振り返る。このとき上目遣いの視線が読者とかち合うのだ。あれ?と思う。誰をみてるの?である。別れた狂児への名残惜しさで振り返るなら、先の狂児と同じく視線はもっと遠くなければならない。ここに違和感があった。 もう一度狂児が振り返る。続く駅の出入り口は狂児の立つ位置よりずっと近くに寄った視点から描かれている。聡実が降りていった階段。ひょっとして追うのもありなんかな、と思わせる寄せ方だ。 以上の見方はショットを断片でしか捉えていない。あらためて狂児の振り返るところから連続したものとして読み直してみる。振り返る聡実は少し後ろを見上げる視線だ。実際一人で降りていく聡実がこの目線になることはない。一人なのだから。ということは、これは狂児がみている想念上の聡実なのだ。いつも聡実の少し後ろを歩く自分をそこに置いて、振り返る聡実の視線を受け止める。気持ちの上では既に狂児は聡実と一緒に歩いている。二度目に振り返った狂児がみているのは二人で歩いて行っている出入り口。なのだ。寄りは思いの強さ。希望(であってほしい)。 休筆していためんたい子先生が現場に戻ってきたのはごみ置き場に置かれた自著の漫画本を見てしまったからだが、ファミレス行こ。は物語を消費し終えたら用済みになる漫画づくりへの強烈なカウンターとして完成したと思えてくる。同じ漫画を今度はどうやって読もうかな、と思えるのはそう無いだろうから。

ドキンチョウ

 昔会社員だった頃あなたみたいなひとは釣り人に向いてますよと、言ったのはぼくの兄と同年代の方であった。それくらいしか接点を覚えていない。ただそのときから無限の頁を持つ広辞苑のごとき世界線のどこかの、静かな渓流でひとり釣り竿を垂れている自分を想像するようになった。言われたときはいや自分はそんな釣りなんて魚が寄ってくるのを優雅に待ってられませんよ真逆ですよドのつくせっかちで常に貧乏ゆすりでもしたい欲求を社会生活の手前意志の力で抑えつけておかげで常に疲弊してます、みたいな。自分の屁で死ぬカメムシのようだったのだが、その方が言うのは釣り人ってのは釣り竿を垂れながら考えてるのははよ釣れ釣れ釣れそればっかりなんですその事ばっかりじりじりじりじり考えてる人の竿にかかるんです、という事であった。ええ…おれはむしろ無になりたいよ…渓流にまで自意識持ち込んでそればっか考えてるなんてとそれは言わずに笑って誤魔化したとおもう。その方は言うまでもなく釣り人であったのだが。 緊張していた事がひとつ終わってほっとしている。自分を弛める行動のストックが増え、今回もいくつか試して効果を実感した。

映画の話

 かれこれ三十年来にならんとする旧友と。お茶など飲みながら映画の話など。楽しい。 かつて多感な学生のころ公開された映画がいま4Kなどでかかる機会が増えて来た。90年代の渋谷でかかっていた映画。しかしうかつに懐かしいなど言えない癒えない生傷めいた映画体験もありそれはPolaX。カラックスはいつも盛り上がる鉄板だけど自分はこれが一番情緒がぐちゃぐちゃになる。苛烈で不吉な物語。PolaX。Xがまるで頸動脈に与える斬り傷にみえる(って違う映画になってしまうが)。Xに込められた意味については映画評論の宮代大嗣さんが第10稿目のX、カラックスとギョームの匿名での借金…etcと教えてくださった。その背景の深さに思いを馳せられるくらいにはぼくも27年という年月を生きたのね。と思う。

蜂蜜

 ギョームスーパーで購入した東欧産の蜂蜜、開封したところ蝋状に結晶していた。レンジで緩めたところ、扉をあけたらレンゲのにおいが爆ぜたように広がってあっという間に。ここはレンゲ畑。確かに確かに蜂蜜は花の精みたいなとこあって、林檎の蜂蜜(青森でも貴重なお土産品。アイボウトフォーミー)を入れた焼き菓子は齧ると鼻腔に林檎の花。果実ではなく花。蜂蜜だから花。が匂う。 大学生のころは帰省のたびに一人暮らしの栄養の足しにと蜂蜜の大瓶を持たされた。祖母から。蜂蜜といえばアカシアだった。薄金色に光る蜂蜜は固まった記憶がない。いつもさらさらと。一人暮らしの学生の雑な食事、焼かない食パンにぬると染み込んでなぜか表面が固くなる。ふかふかの食パンに蜂蜜のエッジを作って食べていた。

三月・雨

 朝はうっすら雨が降って、空気がぬくい。ぬくい。南風。三月はどうにも、胸がさわぐ。 旅に行きたくてたまらないです。どこにいても歩けるだけ歩くだけ。それかバスに乗り電車に乗る。スーパー。市場。アクティビティも冒険もなし。そこで生きるひと達を眺めて試みているのは同化。つかの間の。自分の輪郭を溶かして。塊を溶かして。して変容。

マーティ・シュプリーム

ティモシー・シャラメを堪能する映画だった。マーティ・シュプリーム。 1951年のニューヨークだ。戦争が終わってまだ6年。資産を持たない人たちは必死にみえる、財を築くのに。身内をただ働きさせたりして。 しゃべりっぱなしのマーティが中短期プロジェクトを複数かかえたビジネスマンにみえてくる。口八丁手八丁、詐欺師的で軽薄。父権的世界に徒手空拳で挑む。 ひとは「自分」のままで、この父権的世界に存在感を示せるか?というの普遍的な問いですわね、自分を変えずにお金と名誉を得られる?やりたい事でお金と名誉を得られる? 父権はいつでも引き換えに誇りを要求するね。本当権力にぎったじじい全員うんこ投げたい。 観ていて生じるあらゆるツッコミをティモシー・シャラメひとりの身体性がすべてこれはありだな、に納得させてしまう。全身グルーヴ。 若いマーティには自分以上に大切なものがない。ただひとり自分が恃み。心からの言葉を届けたい誰かはまだいない。それが痛快でカタルシスで不思議に救いも感じる。 ねえ、どう生きる?という問い。うんこな父権を再生産するのか、まったく違う価値を築くのか。あっという間の2時間半。

うれしや

 ジャンヌ・ディエルマンを観終わってロビーに出たら、その映画館で時々もぎりさんとしていらしている片桐はいりさんの姿があり(ばっちり作業着でいらしたがめちゃくちゃスタイルがよくすぐわかった)、一気にテンションが上がった。ラッキー…。おかげで帰りの混雑も浮かれて帰る。 ファミレス行こ。の下巻が配信されていたので書き下ろしを楽しみに最初から読んでいたらまさかこんな事ある?。眩しい。ボーナストラックはかつてない多幸感に溢れ、照れてしまって外では読めない。

ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地

 ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、今日一度きりの上映を知って観てきた。やっと。クレジットにはシャンタル・アンヌ・アケルマンとあったけどアンヌがあったの知らなかった。 寝不足気味だったのもあって途中で寝てしまったが特に後悔はない。映画のアパートの呼び鈴のジャーッという音で起きた。シャンタル・アケルマン、一晩中という映画でもたしか寝てしまったがあれも扉を激しく叩く音で目が覚めた(音の効果、折り込み済みでは…この辺で起きてもらお的な)。 デビュー作品の街を離れてを観た後では女と台所の組み合わせは不穏。デルフィーヌ・セリッグがとにかく真面目に家事をする。ヒールのある靴で室内を歩き、離れる部屋はこまめに消灯。定まったルーティン。自らの意志に拠るのか、社会が強いる圧なのか、どっちなんかなあ、どっちもだよな、その区別なんてつけられないただひたむきな身体性で営まれる丁寧な暮らし。 どうでもいい奴にオーガズムをもたらされるというの、真面目なひとにはキツいだろうなあと思う。どうでもいい奴(顔すら出ない)のやる気のない動きで。ジャンヌという女性を痛ましいと感じた。そのときまでただ真面目に、彼女が生きる社会を生きていただけだ。経済社会の等価交換でしかない行為。 映画は3時間20分。終わりは唐突にやって来る。

百合の

 週末お祝いの席が続き、家にはお土産の大きな百合など。扉を開けると強い芳香がくる。子どもはめちゃイケメンの匂いって感じ!と言う。わかる。百合は男性的だ。形がそう。匂いは鋭くて爽やかな集中線的線。 本当はあなたとなら不幸でもいいです、なんだろうね。一緒に生きる未来。わたし。にとっての、あなた。わたしをわたしたらしめるあなた。のあなた。とはいっても、そこからどうにか、不幸にしないように、ならないようにどうこうするのが人間性なの。

回収されない

 ぼやっと幸せについて考えて。幸せってのはアレね、満たされて。満足。嬉しい、みたいな。流れる雲のような。本質的に変化しつづける情動をその概念のなかに含めてしまっているね。食べて満腹ってのも時間が経つと腹が空く。情動も。雲がつかの間光のかげんで染まっては変わるように、自己の新陳代謝を時間と生きてる以上、幸せだな、と感じる情動は、そこに留まることはできない。 己の自由なこころが、あ。いま。幸せでは?幸せ。と感じる一瞬は、それはどんな既成の社会的文化的ストーリーにも回収されない、オリジナルなものだろうと思う。じぶんはそういうのを美しいと思う。

パゾリーニの映画

花粉の症状が全く以て酷くて、くしゃみをなん度もしているうちに身体のほうが。あら。風邪ですか?風邪でしたか?すみません気づかなくて。咽頭痛。悪寒。頭痛。あと何だっけ。みたいな感じで風邪っぽい症状を用意するの。なんなんですか。 そういえばファミレス行こ。を最初から読みながら、あー何か。この感じ。個人的な記憶を刺激されるところがあった。それでパゾリーニの映画を観たいなと思っていた。 アマプラでおすすめにあがっていたテオレマを観ながら字幕を追わなくても画面観てるだけで快。言葉を交わす形の会話の遥か下で叶えられる欲求。意味があるのかよくわからん美しいショットが重なるの。無気味。ただ観ていて快。 女の園の星。で卒アル写真を撮影する先生がこの並びでいけば自分は蝶を食う流れだ、に「豚小屋」で蝶をむさぼり食うピエール・クレマンティを思い出したりして。しかしアマプラに豚小屋は無いよ。

鬼 spectre

 塊と魂って字が似てるわ。と思って調べたら漢語の鬼には実態のない亡霊。霞のごとき何か。という意味があるそうで、ああ。これはspectre。ジャック・リヴェットのアウト・ワン。短時間バージョンにつけられたあれを思い出したのだ。 とは塊とは脆い何かをギュッと固めてる何かであるかもしれん、塊であるからにはいつかは崩れるのかもしれん、などと。そこにあるのは間違いなく希望。薄い光。 平素は自分の抱える冷たい塊を見なくて済むひととばかり付き合っているので、そういうひとにしか惹かれない仕組みになっているので、ぼくの全て。いつか崩れるかもしれない塊を握りしめてるいま。いつのまにか手を離していつか死にたい。などと。

人間のリアル

 三月に入って早々。カレンダーを一週読み違えていた。具体的には今日はファミレス行こ。の下巻発売日。明日はマーティ・シュプリームの公開日。という勘違いをしていた。 引っ込みがつかないのでファミレス行こ。の最終話を読み返した。その前に「下巻 発売日」で検索したら作品を語るスレッドを見つけてついつい読んじゃった。したら自分とは真逆の読み方もあると知って。あらためて作品のもつ幅の大きさを思ったの。 川ぞいを歩きながら交わす会話。思ってる事を言う、といってもその思いが一途な一声である事は少なくて、ひとりの人間の心のなかは多声。逡巡しつつ誠実であろうとする人間の会話だよな〜と思ってしまう。リアル。それは寂しいリアリズムではなくて、現実のコミュニケーションの大事なところをそのまま持ってきてるリアル。 と、ここまで書いてこの二人は最初からあまり言語としての言葉に頼ってないんじゃないかとも思う。和山やまさんの画力がそう思わせるという事ですが。 身体言語はとうに互いを受容している。先生と生徒じゃなくても会ってるって、それが全てでは?と思う。ただ言葉、言語的言語では選択肢に離別が現れてしまう。ファミレス行こ。は聡実の齟齬を解消するドラマだったと言えなくもない。 ぼくは狂児がハグを躱わした理由が彼の誠実を未来の不確実性に賭けたのだったら良いと思う。これは自分の願望を投影している。 今はまだ出来ないけど、いつか、出来る時が来たら。その時には。という。朝の川添いを彼は東に向かって歩いてるように見える。朝日の昇る明るい方。 幸せについて。現実に生きてる人間も一生考えるテーマだ。おおくの人間は現世的な幸福の指標として共有されてるイメージに添うことが幸せと思いたいのだ。自分だってそう思う事ある。おめでとう、という言葉が行き交う場面とかそう。 「幸せ」を考える、その幸せって「自分が共感できる範囲での幸せ」ていうイマジネーションから出られなかったりする。ひとにはひとの幸せがあって、もちろんあなたにも。わたしにも。本当はごく当たり前の事。

花について また

 花といえば食べられる花というの、売られている。edible flower. たいてい真っピンクとか真っ黄色とか。野菜売り場に。あれって豆科じゃないのか。 すみれの花。食用。あれは生で食べると湿布の味がしますね。サロンパスとかああいう。最初に言って欲しいと思う。ピリッと爽やか。とか。 花の首だけそこにあるって、おままごとのよう。残酷で好ましい。おままごと遊びに誘われるのは悪い気がしなかった。しかしあれはお芝居。役があってセリフがあった。居た堪れなくて早々に逃げていた。

豆科の花

 デスクの近くに花があるのは割と気に入っていて、ぼくが花の名前を知らない。というより覚えられないので書けないのが惜しい。ごめんなさい。手書きして文字で下さった方もいた。花の名。そういうの美しいという他何て呼んだらいいのか。ラナンキュラスは最近覚えて、そうだ水遣りします。忘れてた。 男性ばかりのむさ苦しい空間にお花がございますのはいいね、おほほ。と思った方がいいのだろうか。あまり思わない。何故かといえばチューリップ。割と男っぽい。なんで。茎がチューブ的平行な線。くねっとしたアール・ヌーヴォーの曲線も男性的。太い。細いのも芯が太い。 そういえばあれは良かった。とは釣鐘のような。ランプシェードのような。咲いた姿はちりんと音がしそうな。豆科の花なのか? 豆の花に女性性を感じる。柔らかい蔓が柔らかく丸く伸びるところ。花のひらひら。甘い香り。 小さいお嬢さんの発表会のドレスみたいな花ある。色も水色だったりピンクだったりして。あれも豆の花だ。

寂しさについて また

 そのひとが好きだという詩、関心が出て手に取り読んでみる。それは冬の夜の凍えた水を描いた詩で、ああ、見つけてしまった。という気持ち。その凍った水はずっとぼくの子どもの頃から在ったもの。身体の内側に在る、溶けない塊。関係ないけど塊と魂って何でこんなに似た字なん。あえて構造を決めるなら魂が内包する冷たい塊。どうにもならない。 その塊はだめなことをもうだめだと決めて振り返らない。冷徹。赦すという事を知らない。決して溶ける事がない。冷たすぎる塊がぼくを内側から焼く。ぼくを傷つけるのはぼくの溶けない塊。

日記

この時期悩みを聞くことが増えるね、と。旧い知人と。ぼくもひとから悩みを打ち明けられる事は稀にあるが、稀。知人のそれには遠く及ばない。 ただひとの関係には相性があるので、鷹揚でひとを受容れる度量の大きい知人がその対極にいそうなぼくにそう話してくるときはたぶん悩みのなかでも重い話を聞いてしまったのだろう。そういうのは何となくわかる。なのでその重いであろう話の輪郭を撫で、うわ重い。と重さを確かめ合い、笑い、途中踊りを挟んで、また重さに戻り、別れた。