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歌う女・歌わない女

 アニエス・ヴァルダの歌う女・歌わない女が近場で上映された。嬉しい。 学生時代レンタルVHSで観て以来だ。当時観たときは二人の女性が長い年月にわたって互いを受容し合う姿に、良いなあ、と。自分はあらゆる関係性は友情が基盤だと信じているが、この物語は自分を形成したひとつだと思っている。 ほとんど忘れているので新鮮な気分で観た。ポム(ポーリーヌ)の音楽も今ならソフトロックのようね、何か良いね、と素直に思う。 自分の身体は自分のもの、と女性たちが歌う。女だからと与えられず、女だからと強要され、女だからと奪われる、今現在暗いニュースが毎日流れて来るが、およそ60年前にポムたちが歌った事は等しく現在も続く問題なのだ。 (自分の身体を自分のものとされては困る社会があり、そこでは男性の身体は労働のため、権力者のものであり、女性の身体はそんな男性たちの所有の幻想を満たす存在だ。これは男女すべて、人間の問題だと思う) アニエス・ヴァルダは妊娠、出産とその後の子育てにおいて女性の身体と意識が変わっていく様子を二人の女性を通して率直に描く。意思に反した妊娠を中途で処置することも(大きな痛みを感じさせる描写だ。階段そして船)、妊娠した状態の、風船って素晴らしいと歌うことも(中絶反対運動でも歌えそうと声があがる)、それらは等しくひとりの女性のなかで起こることだと。自分の人生を生き、ひとを愛する。歌う。 歌わない女は手を繋ぐことができる。 ハードな境遇に陥ってもそのとき出来る事を精いっぱいするシュザンヌが好きだと思った。 数年前ノルウェーの「ヒューマン・ポジション」を観ながらこの歌う女・歌わない女のことを考えたのを思い出した。歌う女と歌わない女は惹かれあって、ある世界では一生の友人、ある世界では恋人同士なのかもしれない、そこに大きな違いはないかも知れないな等。

秘宝だよ

原題はForbidden City(紫禁城)、これは邦題が素晴らしいのだ「シャオ・メイ ローマ大決戦」。 わかってるな!この邦題つけてくれた方(配給会社?)ありがとう。この邦題じゃなかったら見つけられなかった。かつて映画秘宝に夢中になった人間に訴えるこの題名。検索すると町山智浩さんの2025年の記事に辿り着く。だよね!わかってるね!この記事のときはまだ日本公開が決まっていなかった。さすがである。最寄りの映画館が明日からレイトプログラムに変わるので滑り込みで観てきた。 しょっぱなからフルスロットルで見せてくれる。これは観なければ、と感じたのはタイトルもだが、予告編のバトルシーンでぶつかる肉(体)の音と激しい動きで漏れる声が空々しくなかったからだ。シャオ・メイの拳が、蹴りが男たちの肉に叩き込まれるとき、何とも言えない悲しみがシャオ・メイの身体から伝わってきて、うわこれってブルース・リーじゃん、と久しぶりに鳥肌がたった。 シャオ・メイが良い。獣のようなカンフー馬鹿で、そうなった理由は痛みを以て終盤明らかになる。 ローマのエスニックタウン、庶民的なトラットリア、ライトアップされた夜の遺跡。カンフーとロマンチック、老人の恋と家族の情がまさかのバランスで盛られていてめちゃくちゃ楽しめた。最高である。

五月

 5月が終わろうとしている。 何だか慌しかった。映画館にもあまり行けなくて気持ちが荒んだ。「ボタニスト」「TWIGGY」を観に行ったけど感想も書けてない。あとで書こ。 またひとつ歳を取った。生きてるなあ。 十八歳の自分にがんばれよ。大丈夫だからな。そのうち暖かい場所で生きられるからな、と念を送る。

魚醤

以前子どもと観に行った映画館で 「ドランクヌードル」の予告が流れ、わっ気まずいな!と内心慌てた。ただ画面は美しいし刺繍と詩、あとロメールの「四つの冒険」に着想を得ていると知ったら観ない理由はない。 タイトルのドランクヌードルとはタイ料理の炒め麺、四話構成の一話目に出てくるが、オイスターソースとかナンプラーのあの匂いか…と思う。言ってみればfishy、エロい匂い。 歩くハッテン場のような主人公ではある。彼ら同士の身体言語サイン、あとその後の進展が早いのでなんだか森の生き物をみているようだ。そう、生きてる感じがあるのだ。事後のたどたどしい会話から移民かな、と感じさせる彼は母国語では詩集を出している言葉の優れた使い手だった。刺繍から想起された欲望の想念がどちらのものなのか境界が曖昧になるのもよかった。 四つの冒険から着想を得た部分というのが割とそのまんまで楽しい。主人公は動いただけで向こうから当たりに来る、モテ男ではあるが共感できる存在なのがいい。惹かれるポイントがアートというところ。アーティストは亡くなった恋人の作品を刺繍で辿ってみたらそれがしっくり来て、という。性愛で結びつき想念を共有する描写にはピュアだなあと感動してしまう。 歩くハッテン場がリアルのハッテン場に出向いたら磁極でも反発したのか時空を飛んじゃいました、みたいな展開にはラノベ感を感じなくもない。けど何かこう、アートという世界の門の広さ、懐の深いところを見せられたようで有り寄りの有り?ではある。 青い空に李白の詩を縫いつける描写、何だか美しくて、文字が。人間のすることってかわいいよな、と思う。

ギイ・ジルの映画

 このところ日本で公開されてなかったヌーヴェル・バーグの作家の作品が観られる機会が増えて嬉しい。 ジャック・ロジェとかめちゃくちゃ面白い。 学生の頃はジャック・ロジェのよさがわからなかった。「アデュー・フィリピーヌ」キツいわと思ったし。女子たちどうしていつまでも笑ってばかりなの?しかし中年になって見直したらええ…めっちゃ面白いじゃん…しかも笑ってるのめっちゃいいじゃん…あの頃の自分どうかしてたわ。 でもヒリヒリとした「幸せ…?それ何のこと?」みたいな物語からしか栄養を摂取できない時期ってあると思う。 ギイ・ジルという映画作家を初めて知った。 「オー・パン・クペ」はPatrick Jounéという俳優がとても良かった。この映画で初めて知った。仏のWikiを読むと物語がリアルとリンクしていると感じるが、それこそヌーヴェル・バーグである。ゴダールの恋人のいる時間に出ていたマーシャ・メリルが歳上らしい包容力のある彼女を演じていた。脚がとてもきれい。 映画は柔らかい光のモノクロームで始まり、時々カラーフィルムに切り替わる。これが美しい。「オー・パン・クペ」(カフェの名前だ)のカラーが愛の思い出なら「海辺の恋」のそれはエモーショナルな時間だろう。街を歩いて、言葉を交わして、ふと湧き上がる生きていることの実感。 窓に向ける物憂げな表情。まつげに降りる光。白い手紙。街の息づかい。すべての描写が何ともいえず優しい。 気に入った場面を思い出そうとするとカラーだったのかモノクロームだったのか曖昧になる。それってまるで夢に似ている。 陽気な友人に宛てた手紙のモノローグ、希望を感じさせて良かった。

Köln concert

「 1975年のケルン・コンサート」を観た。 ケルン・コンサートは学生の頃CDを聴いた。しかしピンと来なかった記憶がある。即興で演奏された曲、同じ旋律は現れない(その台詞が映画にあった)。現れて消えていく旋律を掴めないのが、捕まえた旋律を耳で遊ばせられないのが自分には無理でした。 自分自身のままでもう人生が始まっているヴェラを心底羨ましーと思ってしまった。冒頭から我が子の誇りを奪ってきたファッキンな父親(歯科医の傍らで壁一面の大作である油絵を描いている)をどうするよ、とハラハラする一方で母親がすごく良い。本当に。我が子のビッチな場面に遭遇しながらジャッジしない。凄え。自立した母親が子どもである自分を受容してくれるってめちゃくちゃ勇気出るよなと思う。 繊細な魂の音楽家と音楽を愛するプロモーターが一月のケルンで出会う。そこにえっ…あり得なくない…?というトラブルを挟んで二人が交わす会話が良かった。本質的に相容れない他者同士が妥協点を探す対話だった。 キース・ジャレット役の俳優については何故彼だったのかなと思う。顔立ちのせいで弾いてる姿がウラディミール・アシュケナージに見えたよ。 でもケルンに向かう道中、キース・ジャレットが車を止めて朝焼けの空を眺める場面はとても良かった。凍えた山の空気、何層にもなった雲の合間に淡い光が見える。ゆっくりと風が流れて暗い雲が動いて行く。羊たちの鳴き声と鈴の音が響く。同じ空は二度と無い、とはゴダールのモノローグだったと思う。何の映画だったかは忘れたけど。

カメラ

 映画「落下音」を観た。写真家フランチェスカ・ウッドマンの作品がインスピレーション源だったという記事を見てこれは観なければと思ったのだ。 果たして期待以上だった。 あらゆる画面が作り込まれていていい。様々なカメラのもつ特徴的な、写真的イメージが時代を跨いで連続する。画面には「覗く」場面が繰り返し現れる。鍵穴はファインダーと相似を描く。 自分はあらためてポラロイドカメラの色調と輪郭が好きだなと思った(映画にはポラロイドカメラで写真を撮る場面がある)。 画面はカメラが持つ特性を思い出させる。ピンボケ。二重写。被写体が動くことで消失する輪郭。その時間を記録する事の祝祭性。または冷徹さ。 死者に喪服を着せて生きている人間と並んで撮影するのはちょっと引いた。実際あった慣習でなく映画のためのフィクションだとしたらその方が良いと思う。 想念と現実のカットのつなぎ。深い内側にある言葉で出来たモノローグ。泳いだ後、夏の午後、怠さのなかで身体と心の境界がぼやけるときに現れる呟き。もしぼくが女の子の友達でこんな言葉を聞かせてもらったら、深い秘密をもらった、と感じる一方で時間とともにそれがどんな内容だったか思い出せなくなりそうな。秘密、その事実だけが残るような。 映画は大農家の家屋を軸に百年以上の時間を跨ぎ、カットの切り替わりで時代が移る。父権、共同体、国家、大きな力が暴力装置として無辜の女性たちを脅かして来た事実が密やかに語られる。