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ギイ・ジルの映画

 このところ日本で公開されてなかったヌーヴェル・バーグの作家の作品が観られる機会が増えて嬉しい。 ジャック・ロジェとかめちゃくちゃ面白い。 学生の頃はジャック・ロジェのよさがわからなかった。「アデュー・フィリピーヌ」キツいわと思ったし。女子たちどうしていつまでも笑ってばかりなの?しかし中年になって見直したらええ…めっちゃ面白いじゃん…しかも笑ってるのめっちゃいいじゃん…あの頃の自分どうかしてたわ。 でもヒリヒリとした「幸せ…?それ何のこと?」みたいな物語からしか栄養を摂取できない時期ってあると思う。 ギイ・ジルという映画作家を初めて知った。 「オー・パン・クペ」はPatrick Jounéという俳優がとても良かった。この映画で初めて知った。仏のWikiを読むと物語がリアルとリンクしていると感じるが、それこそヌーヴェル・バーグである。ゴダールの恋人のいる時間に出ていたマーシャ・メリルが歳上らしい包容力のある彼女を演じていた。脚がとてもきれい。 映画は柔らかい光のモノクロームで始まり、時々カラーフィルムに切り替わる。これが美しい。「オー・パン・クペ」(カフェの名前だ)のカラーが愛の思い出なら「海辺の恋」のそれはエモーショナルな時間だろう。街を歩いて、言葉を交わして、ふと湧き上がる生きていることの実感。 窓に向ける物憂げな表情。まつげに降りる光。白い手紙。街の息づかい。すべての描写が何ともいえず優しい。 気に入った場面を思い出そうとするとカラーだったのかモノクロームだったのか曖昧になる。それってまるで夢に似ている。 陽気な友人に宛てた手紙のモノローグ、希望を感じさせて良かった。

Köln concert

「 1975年のケルン・コンサート」を観た。 ケルン・コンサートは学生の頃CDを聴いた。しかしピンと来なかった記憶がある。即興で演奏された曲、同じ旋律は現れない(その台詞が映画にあった)。現れて消えていく旋律を掴めないのが、捕まえた旋律を耳で遊ばせられないのが自分には無理でした。 自分自身のままでもう人生が始まっているヴェラを心底羨ましーと思ってしまった。冒頭から我が子の誇りを奪ってきたファッキンな父親(歯科医の傍らで壁一面の大作である油絵を描いている)をどうするよ、とハラハラする一方で母親がすごく良い。本当に。我が子のビッチな場面に遭遇しながらジャッジしない。凄え。自立した母親が子どもである自分を受容してくれるってめちゃくちゃ勇気出るよなと思う。 繊細な魂の音楽家と音楽を愛するプロモーターが一月のケルンで出会う。そこにえっ…あり得なくない…?というトラブルを挟んで二人が交わす会話が良かった。本質的に相容れない他者同士が妥協点を探す対話だった。 キース・ジャレット役の俳優については何故彼だったのかなと思う。顔立ちのせいで弾いてる姿がウラディミール・アシュケナージに見えたよ。 でもケルンに向かう道中、キース・ジャレットが車を止めて朝焼けの空を眺める場面はとても良かった。凍えた山の空気、何層にもなった雲の合間に淡い光が見える。ゆっくりと風が流れて暗い雲が動いて行く。羊たちの鳴き声と鈴の音が響く。同じ空は二度と無い、とはゴダールのモノローグだったと思う。何の映画だったかは忘れたけど。

カメラ

 映画「落下音」を観た。写真家フランチェスカ・ウッドマンの作品がインスピレーション源だったという記事を見てこれは観なければと思ったのだ。 果たして期待以上だった。 あらゆる画面が作り込まれていていい。様々なカメラのもつ特徴的な、写真的イメージが時代を跨いで連続する。画面には「覗く」場面が繰り返し現れる。鍵穴はファインダーと相似を描く。 自分はあらためてポラロイドカメラの色調と輪郭が好きだなと思った(映画にはポラロイドカメラで写真を撮る場面がある)。 画面はカメラが持つ特性を思い出させる。ピンボケ。二重写。被写体が動くことで消失する輪郭。その時間を記録する事の祝祭性。または冷徹さ。 死者に喪服を着せて生きている人間と並んで撮影するのはちょっと引いた。実際あった慣習でなく映画のためのフィクションだとしたらその方が良いと思う。 想念と現実のカットのつなぎ。深い内側にある言葉で出来たモノローグ。泳いだ後、夏の午後、怠さのなかで身体と心の境界がぼやけるときに現れる呟き。もしぼくが女の子の友達でこんな言葉を聞かせてもらったら、深い秘密をもらった、と感じる一方で時間とともにそれがどんな内容だったか思い出せなくなりそうな。秘密、その事実だけが残るような。 映画は大農家の家屋を軸に百年以上の時間を跨ぎ、カットの切り替わりで時代が移る。父権、共同体、国家、大きな力が暴力装置として無辜の女性たちを脅かして来た事実が密やかに語られる。

低血圧を楽にする10の方法

低血圧だ。 青年期以後、普通にしているだけで機嫌が悪いと思われてきた。心外なので先回りしていつも明るく振る舞うようになった。必要以上に。アホだと思われている方がずっといい。実際アホだし。 とはいえ他力本願でテンションを上げるばかりも寂しい。一人でも出来て効果があったものをいくつか書いておきたい。10個も無い。 1.笑う 笑いは血流を上げる。笑ったあとは目の前が明るい。本当は好きなひと、家族や友だちといつも過ごせたら良いのだがそうもいかない。最近は「課長バカ一代」を読んで調子が良くなった。 2.出汁を取って飲む 鶏ガラ、昆布、干し椎茸etc…好きな出汁を取り、自然塩で味付けをして飲む。塩分プラス旨みは効果がある。 3.旅に出る のが難しいときはストックしてあるドラッグストアのお試しシャンプー、お試しボディソープで洗う。平素オールインワン派なので全て同じやつで洗ってしまうが、香りと手順を変えるだけでいつもの風呂も違う土地に来た気分になれる。入浴剤も試したい。 4.普段使わない筋肉を使う あまりやらないスポーツ(ぼくにとってはテニスなど)を教わりながらやってみる。楽しい。 5.映画館で映画を観る 今のところこれが一番効果がある。先日崩れ落ちそうなほどつまらない映画を観たが血流は良くなったと思う。 続く。かも知れない。

シネマスコープ

最寄りのターミナル駅を出て川を越えると 90年代で時間が止まった商業ビルがある。中は大きな映画館がいくつもある大変に贅沢な仕様。周囲が個性を追求とかした結果一様な外見に転じていく中で、そこだけは異質なパラダイス感を保ち続けていて、長らく自分(と家族)のオアシス的な場所だった。しかしとうとう9月末で閉館だそうだ。 閉館のお知らせを見た瞬間胸に穴が空いたのは仕方ない。だってこんなパラダイス他にもう無いんだもの。傷がケロイドになるまでのカウントダウン。 んでアントニオーニの砂丘がかかるというので観に行った。学生時代に池袋で観たんだっけリバイバルで。ロサとセレサは毎週のように行ってたよ。そんな中年の感傷をはやく吹っ飛ばしてくれ。200席近い大劇場、朝一の上映、観客はまばら。スクリーンがシネマスコープサイズに広がる音が大好きだ。 美しい二人が出会えばお伽噺だ。この映画を引用した現代美術もあるのも理解できる視覚的快楽を追った画面が連続する。好き。ダリア・ハルプリンの日焼けした肌が美しい。榛色の瞳がいい。オフィスのアシスタントなのに今どこにいる?というボスの問いに逆に調べさせるのがいい。彼女だけが生きている。 そういえば飛行機ってあんな盗んだバイクで〜みたいなノリで動かせるものなんか、と昔も思った気がする。彼の乗る車は年季の入ったピックアップトラックだったが、確かに農業経験があるなら飛行機くらい乗れるのかも知れない。農薬撒くのに。 砂に塗れた人間の身体が彫刻のように見えるのは、ポップな広告美術へのルネサンス的カウンターかしら。と思った。ラストがいい。

若い母親たち

 ダルデンヌ兄弟の「そして彼女たちは」を観た。 ダルデンヌ兄弟の映画を観るのは「ある子供」以来だ。これは当時パリに住んでいた友だちに会いに行ったとき映画館で観た。オデオンの。ひったくりの場面で被害者が「ドロボー!」と叫んでおり、観終わったあと友だちに、あれドロボーって言ってなかった?と訊くとあれはvoleurだという。そうか、じゃあんな目に遭った時は咄嗟にドロボーって叫んでも通じるってことだな、と思った。 施設で暮らす少女たちは「ある子供」で母親になった少女よりもっと若い。彼らのあまりの若さにうろたえてしまう。救いは彼らが守られる施設が存在することだ。 四人の少女たちそれぞれに、不運にして得られなかった慈しみ、奪われ続けた尊厳がある。それは図らずも親から受け継いでしまうもので、経済的困窮も精神的欠乏も構造であり、もっと社会全体が介入していくべき問題だろうと思う。 映画を観ながら、子育てというのは常に自分のトラウマが正面にいるようなものだ(った)よなと思い出していた。まだ小さかった頃、子どもが泣くと親の自分が見るべきは目の前の子どもだとわかっているのに、そこに見てしまうのは泣いている自分。さらにかつて自分の親が自分にしたのと同じ事を、自分がいま子どもに振る舞おうとしていると気づいて、心底恐しかった。こんなの絶対嫌だ。だから親子で色んなひとと出会うようにした。子どもの友だちの親御さん、ぼくの友だち。親と離れてから築いてきた自分を信じようと思ったし、子どもにも自分以外のおとな、まともに育てられたひとに触れて欲しかった。 映画は少女たちそれぞれの自己決定に胸を打たれる。呪縛の連鎖を自分が断つこと。夫になるひとに傷を打ち明け一歩踏み出すこと。少しでも自立しながら姉に頼ること。産みの母に素直な気持ちを差し出すこと。どうか、彼らが自ら決めた己の恵みを、その芽をおおきく育てられますように。と祈らずにいられない。

自然は

時間をつくっては月刊 ホン・サンスに足を運んでいる。最近観たのは新作の「自然は君に何を語るのか」。何だか教育映画みたいなタイトルではある。 ホン・サンスの映画はコミュニケーションのリアル、相手を持ち上げたり自分サゲをしたり思い込みを主張したり、それらがいちいちあるわー。いやないわー。とツッコミに忙しい。どの映画も飲食の場面が多く長く会話がくどくど続くのが正直観ていてしんどいのだが、視点が固定された画面から意識をフェイドアウトさせて音に集中すると会話の旋律とリズムが際立ち、そこに自然の音が加わったりしてこれは音楽的な美しさ。それに気づいて以来癖になってつい観てしまう。 自然といっても造園的に整えられた敷地内、あるいは観光地の公園をそぞろ歩く程度なので、タイトルちょっと大きくないか?と落ち着かない気分にはなってくる。 そう、これは落ち着かない気分がずっと続く映画なんである。ガールフレンドの実家、父親が彼の母のために山ひとつ削って拵えたという美しくでかい家、立派×立派が過ぎて彼女の父親が終始ドヤ顔なのもまあ仕方ないが、成り行きで来てしまった彼ピの居たたまれなさたるや。 魂の自由を愛するナイーブな本質をどうか守りきってくれよ、と祈るように観てしまった。ひとり離れて夏の樹木、夜の植物に手で触れてそうね自然とは。と同調する。時折画面はピント合わせを誤ったかのように輪郭を滲ませるが、これこそが束の間の解放であるような。他者とのコミュニケーションのなかで不明瞭になる自己の輪郭を取り戻すような。そんな時間にみえた。 ハグ、やはり自分には別離のサインとして見えてしまうな。あらためて。