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寂しさについて 続き

 こころ、内情、思うこと考えること感じること、そういうのはあまり区切りがなくて、身体でいえばどこに収容されているんですか。計算とか計画とか思考については頭なのか?ただやっぱりこれは進めていいのか、立ち止まれよ綻びが見えぬか、みたいなアラートは腹が出している、だから純然と思考は頭、脳、Nおuのする事。と思わない。感じない。 そういう精神の全体性の在処として、触れる身体の部位、頭、胸、腹。それらあえて引き出しの取っ手のようにラベルを貼るしかないのなら、何だかぼく、ワイ、Yのそれは虫である。短い時間で生まれては死ぬ存在。

寂しさについて

 作品の解釈、ぼくは、ワイは、Yは、呑気な、丸腰の、無防備なひとりの鑑賞者だからそこにはどうしても自己投影が避けられない。鑑賞を通じて自己を発見するとか、字面でみたら悪くないかも知れないが、ぶっちゃけしんど、だから解釈において自己投影するにしてもあまり罪のない、ドカーン、ズキューン、みたいな活劇を浴びないと精神衛生上よろしくないよな、というアンニュイな気持ち。今日は春で、ある女の子の思いつきに乗っかって、調理した。 一昨日好きになった本、あれはすごい。詩とか申し訳ないけどほとんど理解できない。好きだけど。その好きをぼくは、ワイは、Yは説明できないから好きだと言えるひとは限られる。いないと言いたくない。寂しいので。理解できないけどわからないけど身体に入れたい。呑みたい。そんな気持ちになる。言葉。 自分の中にある部屋を次々と叩く。時間を超えて?言葉が。旅に出たいと思っていたけど、頭のなか、頭というべきか胸というべきか腹といった方が良い気もする、言葉が動いて。

なかなか

 好みの本を見つけたので少々高かったけど(ぼくにとっては)思いきって買ってしまった。 アン・カーソンの「かみあわないノーマ」。装丁も文字組みも書体も何もかももっていかれる。好き。 これを買った書店の方が「これ…わたしも…好きです」と仰っていたのでこれは当てたと確信した。

日記

 雨の朝。二日目。ぼちぼち二月もお終いである。いつにも増して短く感じた。今年の二月。 女が死ぬ物語ってある。不治の病とかでじわじわと。あるいは唐突に。暴力的に。 創作者にとって自己をひたすら更新していくような物語において自分と異なる性でしか現せないもの。心のなかの柔らかい愛おしい何か、あるいは悲しみ。虚無。 物語を進める自己の新陳代謝の過程で死なざるを得ないのだ。主に女が。または女的な何かが。 そんな物語はとても男性的だと思う。旧い何かが死んでは新たに生まれる、または生まれることを期待させるダイナミズム。 物語が女性的な部分でつくられるとまた違ってくると思う。何かを死なせる事無く、新しくなる何か。生かす事。育てる事。問いを見出すこと。問いを渡すことで更新される。

日記

ひととひとというのは何となくではあるけどもこれ意識を共有してんじゃないかなと感じる瞬間がある。どんなときに起こるかといえば互いにリラックスしたチルアウト状態、言語領域より深い場所で集中しているとき、だろうか。 険悪な状態でもその逆でもないニュートラルな雰囲気のときに起こる気がする。 いやそれずっと思ってたんだよという事や、え、あなたの今言ったことそれあなたというよりぼくの事って気がする、という事が相手の口から出てくるとちょっと感動してしまう。もちろん家の壁がそろそろ古くなってきたけどとかずっと考えてたといってもそういう実務的な話では無く個人的だったり抽象的だったり、親しいひとに話すような内側の話だ。

春だったよ

 風の音で目が覚めた。朝。 遠い轟音が近づいてくる。 映画「センチメンタル・バリュー」を観てきた。物語から自分のファザコンがどう動くだろうか、と覚悟していたけどエンタメとして楽しく鑑賞できた。 父と娘の距離感が良い。長女はしっかりあなたのこと恨んでますから、という態度。父は娘たちに対してまあまあ気安い態度を取るが、それは娘だからというより女性全般にそう、とくに長女には娘というより昔の女みたいな接し方をする。自分と娘は似ていると思っているが支配的ではない。紳士的で魅力のある男性。 皆人間的に破綻が無い。本質的に理性的で他者へ深い思いやりを持つ事ができる。そんなひと達の優しさと苦しさがストレートに描かれていた。 ぼくはエル・ファニング観たさに初日に観に行ったのだけど、彼女がまさに彼女に抱くイメージそのままに物語の中にいてじんと来てしまった。女優の本質と思わせる繊細な感受性を惜しみなく見せてくれる。痛みを慰撫してくれる。 ぼく自身の事。ギリギリのところで生きて来た事をふと思い出すときがある。病院に通い、薬を飲み、不眠と付き合った二十年だ。辛い記憶がきりなく自分を苛むときもあれば、温かい記憶に心を励まされるときもある。温かい記憶だけで生きていければ良いと思うが(そうはならない)。 自分につづくひと達にはできるだけ温かい記憶で生きて欲しいと願う。記憶とは土壌だから。

日記・続き

よく寝た。修学旅行に行く夢をみていた。ぼくは高校生になっていて知ってるひと誰もいないな、と思いながら、でも結構楽しくて、知らない顔だけどかわいいなと思っている友だちと行動していた。部屋は一緒で布団は隣で、眠るまでずっと話していた。 *** ファミレス行こ。の感想続き。 上巻のあとがきには聡実くんの幸せについて描くと書かれていた。上巻ラストといえばぼくはあのとき(確認)まで全く「そういう話」だと思ってなかった。好きとかのそういう話である。 ぼけっと読んでいたら彼の困惑と混乱を同様に体験する羽目になって慌てた。 思い出したのは映画監督の濱口竜介さんがかつて映画批評誌に書いていたISAウィルスについてである。ISAウィルスとはIいつの間に・Sそんなに・A愛しちゃったの?主に観客(=読者)の驚きによって生成されるウィルス、感染者は物語の一部として感染を広げる。ぼくはめでたくキャリアとして続編を含めた情報を集めるようになった。 検索すると和山やまさんのインタビュー記事にカラオケ行こ!にはあえて描かれなかったエピソードがあると知った。サイン会レポートなどでは読者の質問に答える形でキャラクターの造形が語られている。読者はそこから作品の余白に補助線を引ける。作品の複合的な鑑賞方法であってとても現代的だと思う。 聡実くんの幸せという事でいえば、彼は「狂児が好きで、狂児は生きてる、それだけの事」という解に至った時点で、狂児を好きな気持ちを受け入れた自己一致の状態にあった。これってもうかなり幸せな事だと思う(悩みの大方は自分の心が視えない事にあるから)。 対等になりたい故の狂児貯金ではあったが、本当はすでにかなり「そう」だった。今まで視えていなかった事が視えた事で、爆けるように笑う事が出来た。 ファミレス行こ。は狂児の心情を表すモノローグが描かれない。二人の会話は微妙に核心を逸れて交わされる。ぼかされた輪郭のうちに物語の因果律を見出すにはどうしても読者自身の自己投影が避けられないが、それを含めての物語だ。観る者の想像をかき立てる絵画のスフマート的技法が、物語の語りそのものに使われている。 (スフマートといえばダヴィンチだけど北条先生、漫画は左手で描き、プリンは右手で食べていた。これは両利きだったダヴィンチに対する目配せ的な描写に思えました。遊び心) 最終話、聡実くんの要求に応える流れでハ...