寂しさについて
作品の解釈、ぼくは、ワイは、Yは、呑気な、丸腰の、無防備なひとりの鑑賞者だからそこにはどうしても自己投影が避けられない。鑑賞を通じて自己を発見するとか、字面でみたら悪くないかも知れないが、ぶっちゃけしんど、だから解釈において自己投影するにしてもあまり罪のない、ドカーン、ズキューン、みたいな活劇を浴びないと精神衛生上よろしくないよな、というアンニュイな気持ち。今日は春で、ある女の子の思いつきに乗っかって、調理した。
一昨日好きになった本、あれはすごい。詩とか申し訳ないけどほとんど理解できない。好きだけど。その好きをぼくは、ワイは、Yは説明できないから好きだと言えるひとは限られる。いないと言いたくない。寂しいので。理解できないけどわからないけど身体に入れたい。呑みたい。そんな気持ちになる。言葉。
自分の中にある部屋を次々と叩く。時間を超えて?言葉が。旅に出たいと思っていたけど、頭のなか、頭というべきか胸というべきか腹といった方が良い気もする、言葉が動いて。
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