日記・続き

よく寝た。修学旅行に行く夢をみていた。ぼくは高校生になっていて知ってるひと誰もいないな、と思いながら、でも結構楽しくて、知らない顔だけどかわいいなと思っている友だちと行動していた。部屋は一緒で布団は隣で、眠るまでずっと話していた。


***

ファミレス行こ。の感想続き。

上巻のあとがきには聡実くんの幸せについて描くと書かれていた。上巻ラストといえばぼくはあのとき(確認)まで全く「そういう話」だと思ってなかった。好きとかのそういう話である。

ぼけっと読んでいたら彼の困惑と混乱を同様に体験する羽目になって慌てた。


思い出したのは映画監督の濱口竜介さんがかつて映画批評誌に書いていたISAウィルスについてである。ISAウィルスとはIいつの間に・Sそんなに・A愛しちゃったの?主に観客(=読者)の驚きによって生成されるウィルス、感染者は物語の一部として感染を広げる。ぼくはめでたくキャリアとして続編を含めた情報を集めるようになった。


検索すると和山やまさんのインタビュー記事にカラオケ行こ!にはあえて描かれなかったエピソードがあると知った。サイン会レポートなどでは読者の質問に答える形でキャラクターの造形が語られている。読者はそこから作品の余白に補助線を引ける。作品の複合的な鑑賞方法であってとても現代的だと思う。


聡実くんの幸せという事でいえば、彼は「狂児が好きで、狂児は生きてる、それだけの事」という解に至った時点で、狂児を好きな気持ちを受け入れた自己一致の状態にあった。これってもうかなり幸せな事だと思う(悩みの大方は自分の心が視えない事にあるから)。


対等になりたい故の狂児貯金ではあったが、本当はすでにかなり「そう」だった。今まで視えていなかった事が視えた事で、爆けるように笑う事が出来た。


ファミレス行こ。は狂児の心情を表すモノローグが描かれない。二人の会話は微妙に核心を逸れて交わされる。ぼかされた輪郭のうちに物語の因果律を見出すにはどうしても読者自身の自己投影が避けられないが、それを含めての物語だ。観る者の想像をかき立てる絵画のスフマート的技法が、物語の語りそのものに使われている。

(スフマートといえばダヴィンチだけど北条先生、漫画は左手で描き、プリンは右手で食べていた。これは両利きだったダヴィンチに対する目配せ的な描写に思えました。遊び心)



最終話、聡実くんの要求に応える流れでハグする方が自然だと思えたが、狂児、これを躱わしてしまう。まるで彼を鼓舞するような触れ方だけど利き手ではない。狂児にとっては応えるよりも応えない事のほうが重要なのだろう。ここでも類推するしかない。

地下通路のカットはラストシーンにしてはだいぶ寄っていると感じた。映画なら追うのを期待させる距離感である。狂児の表情はモナリザだ(読む毎にその時々のぼく自身の心情が投影されるので)。


狂児の行動を最終話の緩んだ様子から遡っていくと、聡実がプレゼントがある、その時が来たら「ぼくのために」受け取って欲しい、と伝える場面以後、狂児は聡実の意思によって別離のときが来ることを常に意識していたのだろう。

上巻ラストのバックハグは狂児にとっては別離のはじまりのサインとして受け取られていたのではないか。あとハグって行為にあまり馴染みがない気もする。世代的に。

マックの果し合いのときまで狂児の根底に別れへの怯え、不安があったと仮定すると、聡実のアパートでの彼の行動は自己防衛によるものだったと腑に落ちる。俺とどうなりたいの?とは抑え込んだ気持ちが現れてしまったように思える。即座の二言目では主体を聡実一人に変えている。図らず飛び出た、先の自分の願望(俺と、=一緒にいること)を打ち消すかのようだ。


とすればその日の夜のマックでアホやろ、と聡実に突っ込まれるほどの数のバーガーを用意したのも防衛策に思えてくる。決定的な事を言わせたくない。食べさせて塞いでしまいたい。

聡実が口を開くまで聡実から視線を逸らさない、緊迫した場面である。


カラオケ行こ!が物語の始まりである「父」的な要素が置かれた世界だとすると、ファミレス行こ。は「全てを受け入れる」、受容の物語だろう。和山やまさんの遊びごころ的な何かが描かれていないか?と読み返していたら、マナちゃん(素敵。大好き)、丸山君、マサノリ、誠くん、みんなMaで始まっている。これは偶然なのか。言語学の音象徴ではMaの音は母性、受容…(祭林組も)。

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