ラックス リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 2月 19, 2026 ラナンキュラスが旬だ。ずっと薔薇だと思っていたのはラナンキュラスという花で棘がなかった。形は呑気、鷹揚な咲き方でいっぺんに好きになった。八重咲きはおおらかで一重咲きは透けて華やかだ。窓辺が明るい。魁クロマティ高校に職員室編が出ていた事を知ってさっそく電子書籍で読んでいる。メカ沢… リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
人間のリアル 3月 05, 2026 三月に入って早々。カレンダーを一週読み違えていた。具体的には今日はファミレス行こ。の下巻発売日。明日はマーティ・シュプリームの公開日。という勘違いをしていた。 引っ込みがつかないのでファミレス行こ。の最終話を読み返した。その前に「下巻 発売日」で検索したら作品を語るスレッドを見つけてついつい読んじゃった。したら自分とは真逆の読み方もあると知って。あらためて作品のもつ幅の大きさを思ったの。 川ぞいを歩きながら交わす会話。思ってる事を言う、といってもその思いが一途な一声である事は少なくて、ひとりの人間の心のなかは多声。逡巡しつつ誠実であろうとする人間の会話だよな〜と思ってしまう。リアル。それは寂しいリアリズムではなくて、現実のコミュニケーションの大事なところをそのまま持ってきてるリアル。 と、ここまで書いてこの二人は最初からあまり言語としての言葉に頼ってないんじゃないかとも思う。和山やまさんの画力がそう思わせるという事ですが。 身体言語はとうに互いを受容している。先生と生徒じゃなくても会ってるって、それが全てでは?と思う。ただ言葉、言語的言語では選択肢に離別が現れてしまう。ファミレス行こ。は聡実の齟齬を解消するドラマだったと言えなくもない。 ぼくは狂児がハグを躱わした理由が彼の誠実を未来の不確実性に賭けたのだったら良いと思う。これは自分の願望を投影している。 今はまだ出来ないけど、いつか、出来る時が来たら。その時には。という。朝の川添いを彼は東に向かって歩いてるように見える。朝日の昇る明るい方。 幸せについて。現実に生きてる人間も一生考えるテーマだ。おおくの人間は現世的な幸福の指標として共有されてるイメージに添うことが幸せと思いたいのだ。自分だってそう思う事ある。おめでとう、という言葉が行き交う場面とかそう。 「幸せ」を考える、その幸せって「自分が共感できる範囲での幸せ」ていうイマジネーションから出られなかったりする。ひとにはひとの幸せがあって、もちろんあなたにも。わたしにも。本当はごく当たり前の事。 続きを読む
ギイ・ジルの映画 4月 28, 2026 このところ日本で公開されてなかったヌーヴェル・バーグの作家の作品が観られる機会が増えて嬉しい。 ジャック・ロジェとかめちゃくちゃ面白い。 学生の頃はジャック・ロジェのよさがわからなかった。「アデュー・フィリピーヌ」キツいわと思ったし。女子たちどうしていつまでも笑ってばかりなの?しかし中年になって見直したらええ…めっちゃ面白いじゃん…しかも笑ってるのめっちゃいいじゃん…あの頃の自分どうかしてたわ。 でもヒリヒリとした「幸せ…?それ何のこと?」みたいな物語からしか栄養を摂取できない時期ってあると思う。 ギイ・ジルという映画作家を初めて知った。 「オー・パン・クペ」はPatrick Jounéという俳優がとても良かった。この映画で初めて知った。仏のWikiを読むと物語がリアルとリンクしていると感じるが、それこそヌーヴェル・バーグである。ゴダールの恋人のいる時間に出ていたマーシャ・メリルが歳上らしい包容力のある彼女を演じていた。脚がとてもきれい。 映画は柔らかい光のモノクロームで始まり、時々カラーフィルムに切り替わる。これが美しい。「オー・パン・クペ」(カフェの名前だ)のカラーが愛の思い出なら「海辺の恋」のそれはエモーショナルな時間だろう。街を歩いて、言葉を交わして、ふと湧き上がる生きていることの実感。 窓に向ける物憂げな表情。まつげに降りる光。白い手紙。街の息づかい。すべての描写が何ともいえず優しい。 気に入った場面を思い出そうとするとカラーだったのかモノクロームだったのか曖昧になる。それってまるで夢に似ている。 陽気な友人に宛てた手紙のモノローグ、希望を感じさせて良かった。 続きを読む
日記・続き 2月 21, 2026 よく寝た。修学旅行に行く夢をみていた。ぼくは高校生になっていて知ってるひと誰もいないな、と思いながら、でも結構楽しくて、知らない顔だけどかわいいなと思っている友だちと行動していた。部屋は一緒で布団は隣で、眠るまでずっと話していた。 *** ファミレス行こ。の感想続き。 上巻のあとがきには聡実くんの幸せについて描くと書かれていた。上巻ラストといえばぼくはあのとき(確認)まで全く「そういう話」だと思ってなかった。好きとかのそういう話である。 ぼけっと読んでいたら彼の困惑と混乱を同様に体験する羽目になって慌てた。 思い出したのは映画監督の濱口竜介さんがかつて映画批評誌に書いていたISAウィルスについてである。ISAウィルスとはIいつの間に・Sそんなに・A愛しちゃったの?主に観客(=読者)の驚きによって生成されるウィルス、感染者は物語の一部として感染を広げる。ぼくはめでたくキャリアとして続編を含めた情報を集めるようになった。 検索すると和山やまさんのインタビュー記事にカラオケ行こ!にはあえて描かれなかったエピソードがあると知った。サイン会レポートなどでは読者の質問に答える形でキャラクターの造形が語られている。読者はそこから作品の余白に補助線を引ける。作品の複合的な鑑賞方法であってとても現代的だと思う。 聡実くんの幸せという事でいえば、彼は「狂児が好きで、狂児は生きてる、それだけの事」という解に至った時点で、狂児を好きな気持ちを受け入れた自己一致の状態にあった。これってもうかなり幸せな事だと思う(悩みの大方は自分の心が視えない事にあるから)。 対等になりたい故の狂児貯金ではあったが、本当はすでにかなり「そう」だった。今まで視えていなかった事が視えた事で、爆けるように笑う事が出来た。 ファミレス行こ。は狂児の心情を表すモノローグが描かれない。二人の会話は微妙に核心を逸れて交わされる。ぼかされた輪郭のうちに物語の因果律を見出すにはどうしても読者自身の自己投影が避けられないが、それを含めての物語だ。観る者の想像をかき立てる絵画のスフマート的技法が、物語の語りそのものに使われている。 (スフマートといえばダヴィンチだけど北条先生、漫画は左手で描き、プリンは右手で食べていた。これは両利きだったダヴィンチに対する目配せ的な描写に思えました。遊び心) 最終話、聡実くんの要求に応える流れでハ... 続きを読む
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